福原治平プロフィール

福原 治平(1918-2013)

十勝・釧路地方に展開する食品スーパー「フクハラ」創業者。
半世紀トップとして経営し、2005年名誉会長に就任。

生まれ

1918年(大正7年)、十勝管内音更町(その後分村し現鹿追町)生まれ。生家は米、青果、酒、文房具などを扱う商店だった。店は3年後に新得村(現十勝管内新得町)の新得駅前に移り、新得で育つ。

上京・戦争・独立

1932年(昭和7年)に上京。20歳の冬に旭川の部隊へ徴兵されるまでの約7年間、「山田時計店」で住み込みで働く。その後ノモンハン戦に加わる。この戦いに関係する絵画なども、記念館に展示されている。
1943年に妻・カツ子と結婚。
1945年には二度目の召集。終戦後に独立を決意し、鹿追へ戻る。
1946年に食堂を開始。翌年には魚屋を併設、生鮮食料品も扱うようになる。
1958年には個人経営から会社組織に変え、株式会社福原商店を設立した。

発展

鹿追町の然別湖畔に「ホテル福原」も建設。ホテル内に鑑賞無料の「ミネルバ美術館」を作り、福原記念美術館開館までは、そこに作品を展示し、宿泊客らを楽しませていた。
現在も作品は多数展示中。その後商号は福原商店から福原へ変更。
そして2002年にラルズと経営統合。
その後治平氏は社長の職を退き、名誉会長に就任した。

現在

また治平氏は、子ども達や若者達への教育支援活動にも力を入れていた。
福原記念美術館に縁のあるものを挙げれば、2004年にネパール・ブンガマティ村に開校した「クラーク記念ヒマラヤ小学校」は、貧しい子ども達への教育を目的に建築を援助。校舎二階部分は、治平氏と神奈川県のボランティアサークル「チョラ・チョリ」の援助により完成した。この学校の子ども達が、支援のお礼として福原記念美術館へ初めて描く水彩画をプレゼントしてくれた。それらのかわいらしい子ども達の絵は、記念館に展示中。
2013年没。

ノモンハン戦について

1939年(昭和14年)5月~9月にかけて、満州国(中国北東地方)とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンで起こった、日本・満州軍とソ連・モンゴル軍による国境紛争事件。日本は関東軍15,000人を動員したが、8月にソ連の空軍と陸軍機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受ける。

独ソ不可侵条約が締結されたため、9月15日モスクワで停戦協定に調印。この事件で軍部の対ソ開戦論(北進論)は後退。ソ連崩壊後、ソ連側も大きな損害を被っていたことが明らかになった。

日本側の戦死者は約8,000人とされ、約4,500人の遺体は旧日本軍が収容し、約3,500人は未確認。